教育関係の文章が出題。


昨日、今日と国公立大学個別試験が行われました。
受験された方、本当にお疲れさまでした。
今日はゆっくりと休息をとられることをお祈り申し上げております。


さて、東大の入試問題は、いつも気になって見ています(今は教材作成の担当じゃないんですけどね。やはりトピックスとして東大・京大に関しては知っておかねば、と思いますから)。
今年は、文系国語の第4問にて、教育に関する問題が扱われ、個人的な興味としてまず目がいきました。
※問題の方は、河合塾さんが読売Onlineの力添えにより公開していますので、参照してみてください。


国語の問題の難易度、あるいは「良問か、それとも…」というのは私(ブログ担当:寺西)は門外漢なので、教育、という視点から「高校生に紹介したい文章かどうか」ということを考えてみますと、とても意味のある文章を取り上げてくれたな、と感じました。
大体の文章の流れを紹介しますと、次のような話です。

  • 見習いという形態を利用しにくい現代の教師は難しい条件下にある。
  • 中世は、教師が「知識人」=「文章を作る職業人」として(学生から)見られていたため、「見習い」という方式が適合していた。それは「教えるー教えられる」の関係というよりも「先輩ー後輩」という関係だった。
  • そのため、中世においては「教える技術」が発達しにくい環境だった。
  • 「見習い」の環境から発達してきた「学校」という箱では、先生はどうしても生徒に「自分のやり方」を教えたがる(学問好きであればなおさら)。そのため、受け入れる人、受け入れない人で「ひいき」の問題が生じる。
  • したがって、「見習い」の機能がなくなった(※誰しもが先生のような職種を目指すわけではないから)近代の教師の環境下では、「教える技術」が必要であるとともに、子どもへの無限の理解を強いられる。

(宮澤康人「学校を糾弾するまえに」)


さて、なぜ私が「意味がある」と思ったかというと、この文章を読んでの受け取り方、そして感想や意見などに、人間性が現れるんじゃないかな、と思ったからです。


まず、「今の教師は大変難しい条件の中で教育をしなければいけない」という内容が書かれています。
「教師って大変だ」「誰も理解しちゃくれない」と必要以上に思って、教師としての責務を果たしていない人はきっと「そうそう!だから俺も…」とか思うのではないでしょうか。
また、「教師のひいき」についても書かれています。
「僕ができないのは先生の教え方が悪いから…」と必要以上に思っている人は、これまたきっと「そうそう!」と思うのではないでしょうか。
現実を見据えた上で冷静に分析した文章なんですが、過度に外部環境のせいにしがちな人には、必要以上に共感(!?)を呼ぶ文章だったんじゃないかなあ、と思います。
「国語の文章として提示する」「それに解答する」「判断する」という流れの中ではどうかわかりませんが、解答の中でもきっと、その人の人間性が見え隠れする文章なんじゃないですかね。


教師も、子どもたちも、それまで「普通」とされていたところから環境が変わると誰しも「大変」と感じるんです。
でも、大変、大変、タイヘンと叫んでも変わりません(言いたい気持ちはわかるんですけどね)。
大事なのは「大変」と感じつつも、何らかしらの第一歩〜自分なりの行動〜に移せるかどうか、あるいは、そういう考え方ができているかどうか、という点にあります。


考え方ができている人とできていない人では、自ずとその表現も変わってきます。
人間性だけではなく、バランス感覚も、きっと解答の全体の表現の中で見られたんじゃないかな、と感じました。


余談になりますが、最近の(教師を含めた)教え手に必要なものは「教える技術」といろいろな教育誌で言われており、私も同じように感じています。
所謂「テクニック」的なものではなく、技巧〜わざ、たくみ〜というものに近いのかもしれません。
子どもたちの役に立ちたい!という思いだけではなく(この思いは教え手の「前提条件」ですよね)、役に立ちたいからこそいろいろな技巧を身に付け、子どもたちの共感を呼ぶこと。子どもたちの成長につなげること。
それが今まで以上に必要とされている時代なのでしょう。
…と、自分に言い聞かせる意味でも。