萩原朔太郎


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たいていの学生は、教科書について考えて居る。
宇宙に於いてこれほど乾燥無味の書物はないと。

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萩原朔太郎は、大正〜戦前頃の代表的詩人。


タイトル、そして一言そのものを見て、「えっ、必修教科なんていらないよ、という批判!?」と思われたかもしれませんね(^^
実はこの一言、続きがあります。


けれどもまた、必ずしもそうでないと言う日が来るであろう。
彼らにして学校をやめ、今一度、試験の心配なしに読んだならば!



今日の一言は、10月30日の日記にコメントしていただいたid:sigmundさんへのお返事にもなっております(先日はコメントありがとうございました!)。
彼のコメントにはこうあります。


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学生たちは常に試験のことを意識してます。それ自体は悪いことではないのですが、そのことばかりに気を取られ、肝心の学問の楽しさを見失いがちです。

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小学校の頃から「教えられる」環境に慣れてきた日本人は、だんだんと

  • 自分に合った教え方ではないと嫌だ。。。
  • 自分が理解できないのは教え方が悪いからだ。。。

そういう感情が強くなっていくようです。
そして、「教科書ってほんとつまんない」そんな感覚も抱くようになるかもしれません。


でも、学校をやめて、試験の心配なしに読んだら…
結構教科書も面白いものなんですよ。


自分自身の大学生の頃の話ですが、私は理系の日本史履修者で、世界史は選択ではありませんでした。
注)私の頃は世界史は選択教科の1つですので、今「未履修問題」で騒がれているような「必修」ではないんです。
日本史は「好きだったから」選択し、世界史は「カタカナを見るのがすごく嫌だったから」絶対に取りたくなかったんです。


そんな私が、大学時代の家庭教師先で「テスト前だけ世界史も教えてほしい」と言われ、「いや、私、ほとんどやったことないんですよ」と伝えたにも関わらず「そこをなんとか」と訳のわからない(笑)“押し”に屈し、とりあえず世界史の教科書を読み…


これが結構面白い。


そして、生徒と一緒に勉強するような感じで世界史対策を進め、割と良い点数を(教え子が)残してくれたのを覚えています。


試験のため、という呪縛から離れて教科書を読み、その感覚が教え子に伝わったから、教え子も「興味」から世界史を勉強した。
そしたら「試験のため」という目的も達成できた。
やっぱり興味にかなうものはありませんね。



10月30日の日記でも述べましたが、教えられる権利を与えられているって幸せなことなんですよ。
タイやフィリピンなどでは、このような未履修の問題が起こったら、本当に「勉強させろ!」という騒動になるそうですね。

  • 未履修の人が補習をしないなんて(今まで受験対策ばかりしてきたから)不公平だ
  • 今から補習するなんて余りにも負荷がかかって…


こういう「受験」を中心にしたモノの見方ではなく、ちょっと角度を変えてみると、問題が違って見えるのではないでしょうか。


最後に、10月30日のid:sigmundさんのコメントを紹介しますね。


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本来、学問というものは役に立たないものかもしれません。
しかし、学問を修めていくからこそ、高い文化水準や道徳が生まれ、今日の日本があるのだと思います


だから、今回の履修問題をただ単に受験のためということではなく、高校で学ぶことは幅広い教養を身につけることの一部としてとらえて、問題解決に向かってほしいと思います