タンホイザーが死なない「タンホイザー」?


日曜日、上野の東京文化会館にて、ワーグナーのオペラ「タンホイザー」を鑑賞してきました。
小澤征爾指揮/東京オペラの森管弦楽団・合唱団ほか 詳細はこちら

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ロバート・カーセン氏による新演出ということで、話題を呼んでいました。
本来は主人公のタンホイザーは13世紀の吟遊詩人という設定なのですが、今回は現代の画家

  • ヴェーヌスもエリーザベトも、タンホイザー「大胆な画才」(←大胆な歌)に惚れこんでいた
  • 国家の威信をかけた「ヴァルトブルグの展覧会」(←歌合戦)
  • タンホイザーの「エリーザベトへの過激な愛の本質は」、ヴェヌスブルグで裸のヴェーヌスの前で描いた絵で表現される(どんなものかは見せず)。(←ヴェヌスブルグの体験に基づいた過激な歌)
  • 天使となったエリーザベトとヴェーヌスは寄り添ってたたずんでいる(←「欲望」「貞淑」という対立する構図で描かれる)
  • ラストは展覧会の場面に戻って、タンホイザー絵が認められ、名誉を手にする(←タンホイザーは献身的なエリーザベトの前で力尽き息を引き取る。すると神の救済が奇跡的におこる)
  • タンホイザーが賞賛されたヴェヌスブルグで描いたと思われる絵を飾ろうとした場面で終幕(どんな絵だったかは結局不明)


タンホイザーに詳しい方なら「…?」という感じでしょう。
「なんでタンホイザーが死なないの?」と。


カーセン氏のコメントなどから、伝えたかったことはこんなことではないかなと。

タンホイザーが有していたもの。それは先見的な芸術の才能である。芸術は時として同時代人には理解されないものである。「過激性」は同時代人にとれば過激であるが、後世の人々にとっては過激ではない*1。エリーザベトは余計な固定概念などを抜きにタンホイザーの「心を打つ芸術」を理解する数少ない人間で、献身的に理解を促した。ほかの「(現代の)貴族」たちは偏狭で、本当の芸術性に目を向けようともしない。
※貴族の「偏狭さ・レベルの低さ」は、「貴族の入場(タンホイザーの大行進曲)」の場面で、貴族たちが会場で振舞われる無料のシャンパンや食事に群がる(おかわりもする!)演出により描かれていました*2


エリーザベトの献身さにより、タンホイザーに「(天使となったエリーザベトとヴェーヌスによる)神の奇跡」がおこり、彼の芸術性を周囲が理解する(タンホイザーに時代が追いつく)。
※これは展覧会の場面に戻り周囲から賞賛されながら、タンホイザーが絵を掲げようとしたところのまわりの絵が、全て裸婦を描いたもの(ヴィーナスの誕生など)であったことから推測されます

全く同じセリフを使って、全く同じ音楽で、ここまで違うものを描けるのか。
演出家の高い力量に感心するとともに、ものごとに潜在している可能性の多様さに気づかされました。



捉え方一つで、まだまだ自分たちの知らない世界が待っているのですね。



Z会FP技能士講座担当
(ながの)

*1:事実、ストラヴィンスキーの「春の祭典」は初演時に暴動が起こったといわれています。また、チャイコフスキーの傑作と言われる交響曲第5番やヴァイオリン協奏曲、シューベルトの代表作交響曲第9(8)番「グレイト」も初演時には酷評されたと言われています

*2:現代の貴族とは、たいした理解もないのに、見栄や体裁だけで高価なところに来る人々のことを皮肉っているような気がしました。この公演時にも序曲の冒頭で携帯の着信音が鳴りました。せっかく高価な公演に行くのですから、意識も高く持ってもらいたいものです