内藤朝雄


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自由な社会で強制されるのは、
なじめない者の存在を許す我慢(寛容)だけです。

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明治大学文学部助教授の内藤朝雄氏。今日の一言は『ニートって言うな!』(光文社新書)より引用。
なお、当該書を読むキッカケとなったのは、11月8日のブログ(id:zkai:20061108)にトラックバックをはっていただいたid:terracao:20061110さんの日記によります。
いろいろ示唆に富む内容を提示していただき、改めて感謝の気持ちをお伝えいたします。


さて、今日の一言は、『ニート』論を取り上げる際に内藤氏がしたためた「社会の憎悪のメカニズム」第6項「自由な社会とはいかなるものか」から引用しています。ニート問題が世の中に広く行き渡る原因を作った「教育」論の脅迫概念を批判し、そもそも「教育」は支配的な概念から来る、しかし自由な社会とはなんぞや、という中で上記の文章が書かれています。
※したがって、『ニート』論とは直接的に関係なく、この論を進める上での背景的なものを説明する際の言葉です。


そもそも「善い生き方」とはなんだろうか、と、私(ブログ担当:寺西)自身も考えることがあります。
「善い」が定義されるには、誰しもが共通で「善いこと」と思えるようなことが存在しなければいけませんよね。
いわゆる「共通善」というものです。


もちろん、誰かの助けになるような行為は「共通善」にあたるかもしれません。
しかし、それはある人にとっては「助け」かもしれないが、別の人にとっては「はなはだ迷惑」な行為なのかもしれない、というものも多くあると思うんですよね。
そう考えると、具体性を伴った「共通善」というものを定義できるほど、一人ひとりは偉くない、という考え方が台頭します。


となれば、(自分が)「善いこと」と思って他人に過度に勧めることは、他人の自由を妨げます。


リベラリズムの考え方の本質は(そして、『ニートって言うな!』の中でも内藤氏が書かれていることは)、「寛容」なんですよね。


自由でいたい気持ちが強い方であればあるほど、寛容である必要があること、忘れないでいたいものです。